認知哲学や社会哲学を援用すればこれが見えてくる。そもそも私たちが何かに対する刺激を見出す時に、それはそれ自体が存在するとはわからないが、それに対する複雑な刺激の圧力がかかっているというのは言い過ぎではないだろう。その「それ」に対して私たちが刺激として見出し、さらに私たちが圧力をかけるのである。この圧力というのは、もしかしたら光と呼ばれているのかもしれないが、それはともかく、この圧力と圧力の相互作用によって何かは浮かび上がってくるのではないか? そしてそれは時間や場所、あらゆる条件によって刻々と変化するものだと考えられる。
こうしてみるとその私たちが生み出す圧力というのは私たち自身から自然に誕生するとは思い難い。それを起動させるための装置が必要であるし、その装置は自由意志とは呼び難いのではないか? 単純に考えると、私たちが共同体や国家、あるいは種としての「集団」が積み重なった。計算方法でその圧力をかけているのだ。というのはまだ自然に考えられる気がする。それはある種の遺伝的なものであるだろうし、学習や経験でーどう言えばいいだろうか、心の中の隅っこにあやふやな、曖昧な状態で保存されている装置とでも言えようか? それは自由意思ではなく、限りなく私たちが選択「させられている」ものではないのだろうか?
つまり意思というのは「今ここ」の状況でも圧力によって浮かび上がれられるものであるし、その「今ここ」からさらに私たちを超えた周辺へと圧力を持ってー圧力自体が圧力によってという不思議な言い回しであるがー備わっていくのではないだろうか?
一見私たちは自由であるように見えるが、私たち自身が様々な条件や状況によって突き動かされているもの、それは先ほど述べた言い方でよければ、本来の意味とは異なる「光」によってではないだろうか? そんなこと朝早くから妄想してみた。
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