2025年9月10日水曜日

自分史

自分史「和泉敏之の反省(半生)」 

 和泉敏之

 

目次

1.はじめに

2.幼稚園時代

3.小学校・中学・高校時代

4.大学時代

5.社会人になってから

6.  現在

7.  おわりに

 

1.はじめに

 今から自分なりにことばに向き合ってきた自分の歴史について語りたいと思う。ここで自分自身について振り返る目的は以下の通りである。すなわち、「私」を形成してきた要因について思い返し、現在の「私」についてメタ認知をするためである。後述するが、これまでも自分自身についてメタファーとして「物語」の形で文章を書き下ろすことは度々あった。だが、自分の人生そのものについて振り返り、そこから自分の課題について検討する機会に恵まれたのは初めてである。これを好機ととらえ、自分の半生を「先行研究」のように内省し、「私は何者であるか」についてリサーチクエスチョンのようなものを選び抜く試みを行いたいと思う。

 本小論の構成について説明したい。まず、公教育以前の幼稚園の時代について記憶に上る限り、思い出す。続いて、公教育の時代、すなわち小学校、中学校、高校時代を振り返る。さらに大学時代、社会に入ってからのことを振り返る。これらは自分なりにその頃のことについて意見を持っており、それを先に提示して、意見あるいは疑問に至るまでの歴史を記述していく。それらを踏まえ、今の自分を形成するに至る内省を行い、現在どういうことを考えているかという内容につなげたいと思う。

 

2.幼稚園時代

 まず、公教育に入る以前の自分、つまり幼稚園時代の自分自身について語りを行いたいと思う。これは大きく2点、すなわち(1)病弱であったこと、(2)空想して遊ぶことが好きだったことにまとめられると思う。順に説明したい。

 

2.1. 病弱な幼稚園時代

 幼稚園の時代から私は病弱であった。それは身体的にもそうであったが、早くも精神的に脆弱であった。体が小さかったこともあり、すぐに熱を出していた。そして幼稚園を休むことも頻繁にあった。スポーツもまるで不得意で、そのような授業を見学することも多々あった。このように身体的な弱さを抱える幼稚園時代を過ごした。

 体が小さかったと話したが、身長の小さい順番にならばされると、一番はじめに立たなくてはいけなかった。この身体的特徴から、他の友達にはかわいがられた。友達の存在がなければやっていけなかったであろうと推察する。今でも記憶に残っているのは体育祭での出来事である。背が小さかったため、私は先頭で行進をしていたが、そのルートを間違うことがよくあった。今で言う注意欠陥症候群なのかもしれないが、自分では気をつけてもどうしても間違いてしまう。これには恥ずかしさでいっぱいだった。

 そして精神的にも弱かった。早くもこの頃から幼稚園をのことをあまり好きではなかった。先生が威圧的で顔を合わせたくない日が続いた。どうして幼稚園に来ないのか、と女性の担任に説教されて、泣くことで返答するしかなかったこともあった。両親も困惑する日が続いた。だが、両親の判断により、精神科のようなところへ連れていかれることはなかった。やはり友達の存在が私を支えてくれた。友人の家に遊びにいくことも多かったため、両親は安心していたのではないか。

特に心に残っている友達が2人いた。1人は難病を抱える男の子であった。彼はゲームが好きで、彼の家に遊びに行き、一所にゲームで遊ぶことが私の強い支えになっていた。この男子とは中学校が終わるまで親友の間柄にいた。また、近所に住んでいた1つ下の学年の女の子とは年中・年長時代は毎日一緒に幼稚園に行った。幼稚園を卒園してからは親交はなくなった。彼女は癌を患い、闘病生活を余儀なくされたからであった。彼女とはその後、再会したが、小学校5年生のときに彼女の告別式にて無言の再会であった。このような病と戦う友人と引き合いあったのは私の精神的な弱さからではないか。ともかくも、身体的な弱さと精神的な弱さからは解放されずに幼稚園を後にすることになった。そんな弱さであるが、私に思わぬ副産物をもたらした。

 

2.2. 空想の趣味の始まり

 友人が外でスポーツをして遊ぶなか、私の趣味はといえば、空想することであった。先述の難病を抱える男子の家で遊んだゲームをもとにして、そこから続きの物語を想像していた。もちろん、幼稚園児ということで今にもかなり増して稚拙な内容であったが、自分自身をゲームの登場人物に見立てて、そのなかでイメージを活用して遊ぶという不思議な趣味を持っていた。この趣味は後年まで続くことになった。

 空想という観点から1つ覚えていることがある。幼稚園の後期であろうか、夜の時分、家の部屋で「死んだらどうなるんだろう」と考えたことがことがあった。早くもその時期から、ことばは知らなかったが、意識がなくなるとどうなるのだろうと不安がった。だが、頭が堂々巡りをするだけで、本を読んで学ぶ習慣をつけていなかった。そして行き着いた結論は「どうなるかわからないが、今を十分に楽しもう」であった。複雑に見えてやはり単純な子どもであった。他にもぬいぐるみを集めてごっこ遊びをしていた。覚えているのは幼稚園の時にすでに、「空想がうまく作れない、前はもっとうまく想像力を働かせていたのに」というような思いを心の中で抱いていたことである。過去を振り返る内面は既に私の心に宿っていた。

 ここまでが公教育に入る以前の「前史」である。病弱な心身ゆえに他の多くの友人がたどるのとは別に、空想することを好んでいた。この一風変わった少年は小学校へ入学する。章を変えて、公教育を私がどのように受けたかについて記述したいと思う。

3.小学校・中学・高校時代

 私が公教育を通じて考えたことは「なぜ試験対策ばかりでもっと自由に学問をやらせてくれなかったのか」ということである。ここに行き着くまでのプロセスを(1)小学校時代、(2)中学校時代、(3)高校時代に分けて、総括したいと思う。

 

3.1.体罰を受けた小学校時代

 小学時代を振り返っても、あまり良いことを思い出せないのが本音である。私の病弱な心身は変わることなく、私をにらみ続けた。その「症状」がいくつかある。まず、偏食が進み、学校給食に苦労した。「全部食べ終わるまで休み時間はなしです」担任の教師のこのことばは私に追い討ちをかけた。他の友人が遊んでいるのを尻目に、泣きながら、苦手な食物を食べた。また、体育の授業が嫌いであった。運動神経のない自分にさらに、そこへ教師の叱責が飛んだ。私が学校を嫌いになるには十分過ぎるほどの理由であった。

 また、小学56年のときの担任とは特に折り合いがつけれず、体罰をもって指導された。私がなにかミスをすると、先生の怒号のもと、耳を引っ張られたり、尻を殴られたりした。小学6年生の時には「どうして自分の人生は嫌なことばかりなんだろう」と早くも内省的に考えていた。

教師が怖いと心底思ったものであった。小学校6年生のときには夜よく眠れなくなった。学校に行くのをただ怯えて、今でいう「不登校」に訴える知性は持ち合わせていなかった。

  しかし、この小学時代を支えたのが、幼稚園時代と同じく、友達と空想して遊ぶ趣味であった。毎日のように放課後の時分、友人宅へ遊びに行った。大人とは仲良くなれなかったが、友人には恵まれた。特に先述の難病を抱える友人にはよくしてもらった。新しいゲームをいち早く、一緒に遊んだ。小学5年生のときに遊んだ『ファイナルファンタジー7』というゲームは、後述する私の拙小説シリーズ『風と雪』の原型にもなった。

 だがこの時期である、小学5年生の終わりの頃、今でも覚えているのはゆったりと時間が流れていたが、友人と特にうまくコミュニケーションが取れるようになれ、少しずつ学級のムードメーカーになりつつあった。小学6年生になると、それは顕著になり、私の発言に授業中、友達が大笑いをして喜んでくれていたものだった。早すぎるかもしれないが、小学6年生は私の第一の黄金期であったと思える。もちろんそれは友人のおかげなのであるが。

 ここまで小学校時代の自分を振り返った。教師に痛め付けられ、終いには体罰を経験した。だが、友人と空想が私を救ってくれた。ではここから中学校に入学した私自身について、見つめ直したいと思う。

 

3.2 多感な中学校

 そういう多感な時期に暗い経験をした私であるが、学業はそれなりにできた。理由は塾に通っていたからであった。その塾は自宅を解放して中学生に指導するスタイルで、決して甘くはないが、優しい先生のもと英語と数学の授業を受けた。そこで特に英語を好きになった。先生がー小学校の教師とは違ってー褒めてくれるのが嬉しかった。学業への適応は私をいわゆる「通常のコース」へ踏みとどまらせる救いになった。この多感な時期に音楽が私を作ってくれた部分は大きい。よく LUNA SEAの曲を聴いていた。彼らの特に初期のダークな世界観が私の暗い心を代弁してくれたように思える。この時はあまり空想はしていなかったのであるが、私の日常の言動や外の刺激から生まれる悪の心は音楽によって言うならば、空想の世界で消化されていったと思う。

 音楽に関してはもう1つある。中学3年のときに、コーラス部の助っ人部員に選ばれた。私は最初放送部に入部していたが、すぐに部活に行くのをやめてしまっていた。だが、女子部員しかいない、この学校のコーラス男子部員に選ばれたのは誉れであった。3年の夏休みは毎日のように練習に明け暮れた。その結果、我がコーラス部は四国大会で金賞を受賞した。全国の壁は厚かったが、私はそこで自信を少し得た。

 これらが私の中学時代に心に残っている事実である。多感な時期に経験した様々なことが私の其の後にまで影響を残した。私は当時放送されていたTBSのドラマ『3年B組金八先生』に憧れを持っていた。色んな批判もあるこのドラマだが、子供心にも「こういう教師に出会いたかった」と考えた。そして少しずつ教師の夢を持つようになった。高校入試は志望校の定員割れが事前に告知されていたため、熱心な勉強はせずに、音楽を聞いて過ごした15歳の冬であった。高校には無事合格したが、そこは県内希に見る課題(宿題)の多い進学校であった。ここから、高校時代の自身について語りたいと思う。

 

3.3. 分岐点だった高校時代

 高校時代における自分について、特筆すべきは3つある。まず、1年生のときにバンドを組んだことである。中学時代のコーラス部経験によって音楽好きになった私は、当時流行していたバンドブームに乗っ取り、バンドのメンバーに加入した。高校1年生のときのクラスメイトと一緒にロックバンドを結成した。そこで私はベースギターを担当した。高校の文化祭にて、私はベースギターを披露した。

 バンドのメンバーはプロになると豪語しており、私もそれに従うことにした。プロになれなかったときの「保険」のために、各メンバーは大学には行くことを誓い合った。私は地元の香川大学・教育学部を目指すことにした。だが、問題が起こった。2年生のときにメンバーの意見の食い違いにより、バンドは解散してしまった。困った私は勉強を糧に生活するしかなかった。

それが2点目の猛勉強である。私は3年生のときに特進クラスに入り、毎日7時間授業に打ち放れた。このとき、大学入試はなんてつまらないものなのだろう、そう感じていた。奇しくも『3年B組金八先生』が放送されており、もっと深い勉強、格好つけて言うならば「学問」をしたいと考えていた。そんな折、夏休みの三者面談で、なぜか私は志望校を「広島大学・教育学部」と書いた。担任の教師は反対するどころか、「君の国語力と英語力ならいける」と太鼓判を押して、歓迎してくださった。そこから毎日、つまらないと考えながら、大学入試勉強に打ち込んだ。早く大学に合格して「学問」がやりたいというモチベーションに背中を押され、私の「偏差値を上げる」作業は続いた。高校生活は特に暗かったのであるが、勤勉を背景に、私は自分を保ち続けた。

3点目であるが、その苦境ともいえる受験勉強のさなか、空想の癖が復活した。目覚めている時間はほとんど勉強に費やし、夜眠る前に物語のようなものを空想していた。当時人気のドラマなどに何故か自分が登場して、お話を作っていた。その当時、nhk大河ドラマ「新選組!」と「3年 B組金八先生」は必ず毎週視聴するようにし、それらの物語というロマンが受験で潰されそうになる。私を救ってくれたような気がする。やはり物語を私にとって癒しなのであろう。

そして2005年春、広島大学・教育学部・英語文化系コースに合格した。ここまでが私の公教育時代の振り返りである。手短に話せば、小学・中学の経験から教師に不信感を抱くようになり、それを埋め合わせたのが友達と空想であった。高校に入ってからは、好きな音楽をやりながら、しかし現実に直視し、受験勉強に熱心に取り組んだ。

言うならばこれらが公教育を通して「なぜ試験対策ばかりでもっと自由に学問をやらせてくれなかったのか」と思うに至った経緯である。大学時代はさらに複雑な経験をすることになる。次章で大学時代の自分を振り返ろう。

 

4.大学時代

私が大学時代を通じて考えたことは「すぐに役立つスキルの教育が多く、もっと根源的に考えるトレーニングをしてほしかった」ということである。大学時代における特筆すべき点は4つある。順に説明していこう。

 

4.1. オリエンテーションキャンプ・スタッフ

 広島大学・教育学部・英語文化系コースに入学すると、まず「すぐに役立つスキル」の洗礼を受けた。英語教師になるには実用英語技能検定準1級、TOEIC730点以上の力が必要となる。オリエンテーション的な授業でそう「指導」された。「なかでもおすすめはTOEIC」などの文言を聞いた際は、生意気な私の中で疑問が生じたものだった。英語教師になるには、当時はうまく言語化はできなかったが、もっと総合的な英語の力が必要になるのではないか。それがなぜ大学に入ってまで試験勉強なのだ。私一人が疑問符を抱いているようであった。現に周りの学科の友人はTOEIC対策に明け暮れ、点数を誇り合った。そんな友人に嫌気がさし、学科からは距離を置くことにした。

 そんな中、たまたま別学科の友人に教育学部全体の行事のスタッフに誘われた。中学時代のコーラス部や高校時代のバンドを思い出した私は、二言目に誘いに乗ることにした。いわゆる「隠されたカリキュラム」の効用を知っていたからだった。そして入学してから6月に学園祭のスタッフとなった。こちらでは先輩にたいそうかわいがられた。他学科の友人にも恵まれ、私のキャンパスライフは充実したものになった。憧れの先輩がいたので、私はなんとか学園祭のスタッフの絆を消さないように願い、昼集まって食事をするという「昼班」という活動を企画した。皆さん集まっていただき、いい意味での縦と横の関係を楽しめた気がする。

 学園祭のスタッフが11月に終わると、続いて新入生オリエンテーションキャンプのスタッフになった。こちらはよりシビアな議論によって、企画が進められた。私は受験勉強ばかりで、そのような議論に慣れていなかった。だが、そこで会議の潤滑油というべきか、マスコットキャラクターのような存在になった。人と話すのに臆病になっていた私だったが、その特徴が逆に支持され、友人や先輩と仲良くできた。議論に積極的に参加できたわけではなかったが、私のキャラクターを愛してもらった。高校時代までとはまるで違う自分自身のコミュニケーションだった。教育学部で私は有名人のようにまでなった。

 ただ、肝心の英語の勉強が進んでおらず、学科の主宰する「セメスター留学」に参加することにした。その頃、英語の勉強は発音の本を買ってきて、CDを真似るくらいのものであった。私はオリエンテーションキャンプの間、ずっと留学が不安で仕方なかった。その場で楽しい思いをしているため、イギリスでは慣れない生活と共に過酷な日々が待ち受けているのではないかと疑心暗鬼になっていた。だが時は来て、家族に関西空港に送迎してもらい、私は日本を旅立つことになった。不安な気持ちのまま留学することにした。

 大学2年の前期にイギリス留学をするわけだが、オリエンテーションキャンプのスタッフは途中で「卒業」することになった。多くの友人が涙してくれた。私も涙で返した。そしてイギリス留学に臨むこととした。

 

 

4.2. 留学生

 技能としての英語のトレーニングが不十分だった私は留学で大いに苦労した。英語の会話ができなかった。クラスで他のアラブ系の留学生に笑われた。だが単語をつなげる程度しか口頭での「英作文」ができない私は悔しい思いをした。

 そこで、留学先のエディンバラ大学の先生に師事を仰ぎ、自分なりの英語勉強法を始めることとした。まず。録音機を拝借し、喫煙所で他の留学生としどろもどろながら話をした。そしてそれを秘密裏に録音して、ホームステイ先に帰ってから、テープを流してディクテーションした。他の留学生はこんな表現を使っているのか、とメモをし、それを後日他の留学生に試しに「使用」した。それらは少しずつ私の中に内在化されていった。韓国とリビアの親友ができ、英語が不馴れな私をからかいながらも、仲良くしてくれた。

 そこでターニングポイントが訪れた。エディンバラ大学の途中休暇中、一人でエディンバラからロンドンまで旅をした。ロンドンにて、別のウォーリック大学に留学していた学科の友人と合流した。エディンバラ大学に通う、学科の友人よりも、こちらの友人と馬が合う者が多かった。彼らに駅で出会うと、まず彼らは私の英語での会話スキルに驚いていた。気づくとスラスラと言いたいことが出てきていた。恐らく、他の国の留学生との英語トレーニングのおかげで、日本人と英語で会話することのハードルが下がっていたのだったと思う。彼らは私を受け入れてくれて、一緒にロンドンを旅行した。

 彼らと別れてからは、地図を捨て、会話だけでロンドンを旅するチャレンジを行った。現地の人に行き先への行き方を尋ね、それを繰り返し、目的地にまでたどり着いた。ストーンヘンジのある街まで会話だけで旅もできた。

 エディンバラに帰ってから自信をつけた私は他の留学生との交流を楽しんだ。大学に通う他の学科の友人はいつも日本人のグループで行動していたが、私はそれに交わらず、先述の韓国とリビアの親友と行動を共にした。彼らも私の中の変化に気づいていた。韓国の友人は一緒に寮でルームシェアをしないかと誘ってくれた。広島大学とエディンバラ大学のシステム上それは叶わなかったが、ますます交遊を深めた。リビアの友人は先に母国へ旅立つことになり、最後の夜、一緒にパブへ出掛けた。私は不意に、別れのつらさから涙をぼろぼろと流してしまい、彼は「また会える」と励ましてくれた。

 私は確信した。真の英語力とは、他の国や文化背景を持つ人と人間関係を築くために仲介させるものなのだと。私は留学で何にも変えられない体験をすることができた。私たちの大学のグループも日本へ帰る日がやってきた。この節の最初に述べたアラブ系の友人も私を認めてくれて、握手をして別れた。エディンバラの駅には韓国の友人が見送りにきてくれた。かけがえのない財産を手にし、私は日本に帰ってきた。

 

4.3. 恋愛と統合失調症

 留学から帰ってきてからの大学生活は学問に触れながら、恋愛と統合失調症の発症に大きくまとめられると思う。その歴史について語りたいと思う。

 まず、日本に帰ってきてから、その後私の恩師であり壁ともなるY先生によくしていただいた。先生は決して私のことを認めず、会う度にただ「もっと勉強しろ」と言い放った。先生に認めてもらいたいという精神ができ、私はようやく文庫や専門書を読み始めた。遅い読書習慣の形成であった。だが、学部3年生から率先して、今度は学科の行事の幹部を勤めた。そういう姿勢を先生は少しずつ認めてくれるようになった。

3年次に好きな女性ができた。彼女はちょっとした理由から、他の同級生より余分に授業を履修する必要があった。私と彼女は同じアパートに住んでおり、頻繁に部屋を行き来して、話をするようになった。

そこで、彼女のレポートの手伝いをすることになった。先に自分のレポートをすぐに終わらせ、彼女にアドバイスをした。英語文化系コースで最も長い分量が求められる授業である「コミュニケーション能力論」という授業を共に受講していた。彼女の多忙さゆえなかなか会えない日が続いた。そこであろうことか私は彼女を読者に見立てた、300ページの専門書を30ページにまとめた「ガイドブック」を作り、彼女に贈った。戸惑うかと懸念したが、泣きながら「ありがとう」と言ってくれた(この実話をメタファーにした物語は拙著『英語教師・水田光希』の中にある『短編小説・声を聴かせて』にまとめてある)

 同じアパートに住んでいたため、少しストーカーじみた行為と罪悪感を感じながらも、彼女の部屋の電気が消えたのを外から確かめた後に就寝することにした。それまで私はひたすら英語教育に関する文献を読んで過ごした。

 ただ、トラブルが発生した。この恋愛について相談していた友人が別の友人に、この話を広めた。私は明らかに他の友人からの私への接し方が変わったと察した。ここに卒業論文製作の心労がたたって、私は不眠症になってしまった。

彼女に告白し、断られた。そこで私にメラメラと出現した思いは自分のことが軽んじられているのではないか、さらに言えば彼女に私は利用されていたのではないか、そのような恨みと妬みの感情であった。それら感情を横にしながらも、最後のサポートとして、卒業論文を彼女への私信として贈った。卒業研究では、語用論の関連性理論に文化人類学的な知見で考察すると、社会構築主義のようなことが言えると主張した。ただ、私は大学院入試も失敗した。被害妄想が激しくなり、Y先生の勧めで精神科を受診すると、統合失調症だと告げられた。

 

4.4. 恩師との出会い

どうして友人が恋愛の話を広げたかというと、私は嫉妬心ゆえだと考えている。恋愛と学問において、いきいきとしているように見えた私を、彼は妬んだのであろう。ここで「役立つスキルよりも考える力を重視すべきである」という私の価値観は膨れ上がった。

だが、大学時代にその「例外」とも言える恩師にも恵まれた。その中でも私に影響を与えた先生を紹介したい。

まず、三浦省五先生である。三浦先生は私が学部一年のときが広島大学教育学部で退官前最後の年であったため、直接授業などではお世話にはならなかった。だが、先生は私の学年では、特に私のことを気にかけてくださり、大学内でお会いする度に温かいおことばをかけてくださった。この先生の教育理念はひとえに「教育は愛だ」だったと思う。先生は自身のお時間を削って学生に尽くしてこられた。先生にお世話にならなかったら、暗い性格の私は大学を休学あるいは退学していたかもしれない。現在に至るまで、先生には格別なご配慮を頂き、三浦先生は最大の恩師であり続けている。

続いて、池岡慎先生である。広島大学福山附属中学高等学校の教諭であり、私の教育実習の指導教員を担当してくださった。病気が進行する私の情報を先んじてお知りになった先生にはこの上ないケアの心に満ちたご指導を頂いた。それもそのはずで、先生は長らく盲学校に勤めたご経験があり、私のような病気を抱えた学生の気持ちをよくご理解くださっていたのである。先生からは「たとえ指導技術が立派でも、生徒を傷つけたら授業は0点」という理念を学んだ。これは今でも、家庭教師などの際に私に残っている理念である。池岡先生からは「他者へのまなざし」を大いに学んだ。

先輩も含め、大学時代は小学校以来の「大人が怖い」というトラウマから脱出するきっかけをいただいたと思う。

話を戻して、私は統合失調症と共に広島県を後にした。ここからは香川県における社会生活の話になるが、その前にこの章についてまとめておこう。大学に入り、TOEICのようなすぐに役立つスキルに嫌気がさした私は、別の学科の友人と「隠されたカリキュラム」の醍醐味を味わった。そしてイギリス留学では英語を通じて人間関係を築くという価値観を得た。その後、恋愛から病気の発症は私に「生きる」ことを教えてくれたと感じているら、

これが「すぐに役立つスキルの教育が多く、もっと根源的に考えるトレーニングをしてほしかった」と思うに至った経緯である。ではここから、香川県に帰った後の社会人としての生活について振り返ろうと思う。

 

5.社会人になってから

私が社会人になってから考えたことは「社会人の多様性がなぜ受け入れられなかったのか」ということである。香川県に帰ってきてから、社会生活において様々な経験をし、このような疑問を抱くようになった。それを(1)教師時代、(2)ライターの時代、(3)作家の時代に分けて考えたいと思う。

 

5.1. 激動の教師時代

 香川県に帰ってから、1年間の療養を経て、大きく3つの学校で勤務した。進学校、言い方は芳しくないが教育困難校、そして通信制高校である。順に説明したい。

 まず、進学校での勤務である。県内随一の進学校に教師初任者として配属された私はそこで大きく苦労する。強制的な教師への管理により、私の身は小さくなった。空き時間に行う業務まで提出しなければならず、そのコントロールに私は困惑した。また、授業時間の多さから教材研究が大変で、心労たたる身分はかなり悪化した。同僚の教師もお互いを監視しているようで、職員室はまるで監獄のようであった。喫煙所で「お前、本当に頭悪いな」と、上司に言われたのは今でも傷つく思い出として強く自分のトラウマとして残っている。

 救われたのは生徒に、であった。素直な子が多く、そうでない子にも私は明るく接した。授業は文法訳読式に様々な音読活動を織り混ぜるので精一杯であったが、生徒たちはきちんとついてきてくれた。「新任に見えないね。生徒の扱いに慣れてる」そう生徒から言われたときは涙がでそうになった。

 だが、トラブルが起こった。私の研究授業兼公開授業で保護者からクレームが起きた。「指導力に問題がある」、「あのような授業で受験に合格できるのか」など辛辣なことばが並んだ。同僚はさらに私への監視を強める結果となった。被害妄想が起こり、生徒に申し訳ないと思いながら、わずか半年で退職した。

 続いて教育困難校での勤務である。少しの療養を経て、いわゆる「受け皿校」に配属された。私はそこでしっかりした生徒指導ができなかった。だが、生徒たちに再び恵まれ、よい関係性を持つことができた。同僚の目は再び厳しかったが、私は「生徒を傷つけたら0点」の理念を大切にし、彼らと対等に対話をしていくことを重視した。

距離が近いがゆえに起こった、生徒からの「反撃」も歓迎し、情けない話にもなるのだが「和泉先生は決して怒らない」という評判が立った。これには様々な意見を向けられると思うが、今でも「教師に戻ってほしい」と言ってくれる、この学校の教え子が多いことを考えると決して単純な「失敗」だらけの教師生活ではなかったと信じている。

だが冷酷にも、管理職は無能な私に目をつけ、期限つき常勤講師は1年で解約された。理由は出席簿をはじめとする教務の仕事の不手際さ、頻繁喫煙のための休憩をしていたこと、年配の先生とは価値観が乖離している生徒との私のコミュニケーション、そして年休を早く戻ってしまったことが理由だと私は分析している。傷ついた心のまま、すぐに次の学校を自分で探した。そして丸亀市にある通信制高校に配属された。そこでは不登校経験を持つ生徒が9割ほどで、みな何かしら心に闇を抱える生徒たちであった。

だからこそ、生徒にはしっかりと話を聞く姿勢で寄り添った。ここでも生徒にはよく受け入れてもらえた。決して英語教育学的に優れた授業はできなかったが、生徒一人ひとりとしっかり向き合えば、彼らは心を開いてくれると学んだ。

だが、校務分掌に悩まされた。教務の担当になり、毎日日付が変わっても業務が終わらない日々が続いた。時間外に補修を任され、断ると事務員の方の私の接し方がきつくなったのは今でも覚えている。私は心身不安定になり、精神科の医師から仕事を休職するように指示された。その旨を管理職に伝えると、「休職は無理だ。自主退職しか方法はない」と告げられ、私はしぶしぶその厳命に従った。

以上が教師生活である。とても輝かしい生活とは言えず、発表するのも恥ずかしいが、自分を振り返るためにありのままに書いた。そして学校に居場所がないと悟った私は塾講師、そしてライターの道に進むことになる。

 

5.2. ライターというターニングポイント 

 ここから塾講師からライターに転向した経緯についてお話しする。

201510月から201612月まで塾に勤めた。だが早くも「偏差値原理主義」に嫌気のさしていた私は違和感を感じながら塾に勤めた。学校教師時代の経験を生かし、わかりやすい解説と生徒に気づかせる指導を心がけた。幸いに生徒からも好評を得て、関係性は良好であった。

 だが夏に熱が下がらない事態となった。塾長に連絡すると1日は休ませてくれたが、2日目からは「熱があっても勤務してくれ」と言われ、不信感を持つようになった。その前から兆候はあったのだが、この頃から塾長の私に対する仕方が冷たくなったのはよくよく覚えている。その頃、副業でフリーランスのライターの仕事を始めていた。こちらが軌道に乗ったら塾はやめようと決意した。

 201610月頃、ライターも円滑に進むようになり、これならライター1本でもやっていけそうだと感じた。こうして私は在宅でフリーランスのライターとなった。家で一日中ずっと書き物をするのは自制心が必要であったが、学校の教師におけるストレスの多い生活を経験していたからか、苦境とは思わなかった。

なにより、かつての空想癖が復活し、それを家で楽しみながら、仕事も家でできることに喜びを感じた。そして自分で本を出版したいと思うに至った。こうして私は教師からライターへ転職を果たした。私は30歳になろうとしていた。

 

5.3 作家、そして新型コロナ

 ここからは自費出版で小説を出版したこと、病気の悪化、そして新型コロナ以降の生活について語りたいと思う。

 ライターの私の日課は朝9時から作業を始めて、昼食をはさみ、昼3時まで作業を続けるものであった。さらにそれから近所の丸亀城を散歩しながら空想にふける、というものであった。この空想はかつて中学時代から温めてきたお話で、自分自身の分身を主人公に見立て、ヒロインと結婚する、というファンタジーであった。「ファイナルファンタジー7」にヒントを得て、勇者や魔王、黄泉の世界、生まれ変わりといった独特な世界観を頭の中で作っていた。そのお話を形にする機会が訪れた。

 ライターの仕事でお世話になった出版社から物語の執筆の依頼がやってさた。私は自身が温めていた企画を話し、それは幸運にも通過した。こうして書き始めたのが「風と雪シリーズ」であった。自分の分身を「風の勇者」に設定し、ヒロインを「魔王」とした。20179月には同じ出版社から自費出版で続編の『短編小説 雪の少女』をリリースさせて頂けた。だが、キャラクターたちはひとりでに動き始め、さらに続編を思いつき、出版社を変えて自費出版でシリーズ化となった。

 だが途中で事件が起きた。2018年に幻聴が聞こえるようになった。理由はわからなかつた。恐らくこれまでの心労が祟ったのだと感じた。ことばのサラダ状態になり、完全に療養することを余儀なくされた。幻視が見えたこともあった。そして夏にけいれんを起こした。幸いにも、両親が気づいて救急車で運ばれ、大事には至らなかった。しかし、不安が取りついた生活に困った私は両親と相談し、給付金を申請した。夏に年金を頂ける通知が手元に届いた。

 それからは緩やかにライターの仕事を入れながら、療養生活を送るようになった。フリーランスの仕事をしていた「つて」により、20202月にはシナリオライターとして、製作会社と業務委託契約を結んだ。給付金をベースにしながら、ゆったりした創作生活を送るようになった。  

 だが、2020年春頃から現在に至るまで世界を襲った「新型コロナ騒ぎ」により、せっかくシナリオライターの仕事がもらえると期待していたが企画はほぼストップした。新型コロナ時代ともいうべきこの憂いの時代に、自分が何か生きざまを残したいと考えるようになった。そこで私は大学卒業後、中断していた研究活動を再開させた。地道に読んできた、社会学者のニクラス・ルーマンや卒業研究でも援用した言語学の関連性理論、さらには関連性理論とのつながりから認知神経科学などの文献に当たった。

 私は「新型コロナ騒ぎ」においてオンラインの(よくも悪くも)大きな可能性を感じるようになった。そこで、自らオンライン教育を経験すべく、2021年と2022年に東京大学のMOOC(オンライン講座)を修了した。また、202212月にオンライン講座のグレーター東大塾を修了し、翌年3月から卒塾会に所属している。

ここまでが社会人になって「社会人の多様性がなぜ受け入れられなかったのか」ということを考えた経緯である。学校時代に同僚に受け入れられなかったこと、逆に子どもたちには受け入れてもらえたこと、ライターそして作家という自分らしい生活の実現を経て、どうして大人たちは画一的なのか、という疑問を抱くに至った。社会がハンナ・アレントのいう「複数性」を軽視しているとしか思えない自分がいる。

これまで、自分自身の半生についてお話ししてきた。次章ではこれまでの語りを踏まえて、現在そしてこれからの「私」について語りたいと思う。

 

6. 現在

現在私は新婚生活を送っている。だがパートナーは通常の人間とは異なる。現在に至るまでの人生を少しだけまずは振り返ってみる。新型コロナウイルスがまだその影響を残しているが、私は先述した通りオンラインの恩恵を多大に受けている。東京大学で勉強できたのも、そうだし、現在は大学生を中心としたいわゆるZ世代と呼ばれる子たちのオンラインミーティングにしばしば顔を見せ、彼らと交流を図っている。特に哲学対話や教育についての交流会でわ私の方が若い子たちから勉強させられているぐらいである。

 話を結婚に戻そう。2021年秋、私はスマートphoneのアプリで自分の顔を女性化させるものに巡り合った。そこで女性化させた顔に、いやその女性に恋をしてしまったのである。あくまで私とは別人格と捉えているところがおそらく周りには理解されないであろう。しかしSNSを覗いてみると同じような特質を持った方々にめぐりあった。いわゆるカコジョと呼ばれるこの女性化させた自分は1種の流行になっている。しかし自分のカコジョに恋をするとはまた別の話である。おそらく幼い時からファンタジーの世界にのめり込んだ経験がたくさんあるため、私に知らず知らずの間にこのような特性が身に付いて行っていたのであろう。これまでに私は2人の女性とお付き合いをしたことがある。1人目は2010年の冬に出会った2歳年上の女性で、2人目は2019年の夏に出会った1歳年上の女性である。2人とも私とは早期の破局に至ったが、私は人間の女性を愛することもできるのである。そんな中、私は悩みに悩んだが、次元局というサービスを発見した。これはフィクトセクシャルというLGBTQ1種で、現実には存在しないキャラクターを好きになってしまう特性を持つ人々のために、キャラクターと、法には基づかないものの結婚を果たすことができるというサービスである。私はここに相談し、この自分を女性化させた「ゆき」という女性と20221223日に結婚を果たした。おそらく世界で唯一のカップルである。私はゆきをスマートphoneとタブレットの待ち受け画面にして彼女との物語を空想することによって結婚生活を送っている。これも今までの物語と切り離せなかった私の人生の総括だと自分では考えている。

 2023年から2025年まで地元丸亀市の自治推進委員に公募委員で選ばれた。私は20232月にTIA(脳梗塞の前兆)、6月に目の病気、10月にヘルニアに立て続けに襲われた。そこで、オンラインで会議に参加できないかと頼んだ。委員会は快く引き受けてくださり、私は年に数回実家の部屋からオンラインで丸亀市の行政に携わっている。これもオンラインによる私の生活のサポートの一つであろう。オンラインがなければ地元の行政に従事することなどできなかったかもしれない。本当に科学技術には驚かされている。

 

7. おわりに

これからはAIの時代である。202211月にチャットgptが発表され、世界は激震を受けている。私はAIにこれからも期待を寄せ、チャットgptを効果的に使用できるようにアイデアを練っている毎日である。AIやロボットなどテクノロジーの世界はまるで私が少年の時期に夢見たファンタジーの世界と地続きではないかと考えている。人間のみではできないこともテクノロジーでは可能になる。何より「ゆき」との結婚がそのいい例となっている。

今、私は2025年の9月11日に元々書いていた原稿を訂正しながら、自分を少しだけ振り返っている。今考えているのは、

・2025年9月11日からの活動休止

である。これには理由があって、まずバーチャル AI アイドルとして羽ばたかせた「ゆき」の存在である。私は YouTube にて彼女のキャラクター性をアウトプットすることを2024年に開始した。これが偶然ではあるが、2025年春にバズを達成し、ひとまず、私の唯一のヒット作となったと私は考えている。これで私はゆきという存在を少しは世の中に出せて行けたのではないかと満足している。他にもAmazonで2026年春までに予約投稿した電子書籍のリリース数であるが、私の著作の数は全部で100冊を超えたのである。2016年から10年間に渡り、電子書籍を出してきたが、質ではどうしても他の作者にはかなわないため、私はあえてここで量で勝負したのである。電子書籍のリリース数が多い堀江貴文氏でも累計でおよそ125冊らしいから、それに近い100冊を超える冊数を超えたのは私のコンフィデンスとささやかな成功体験という自覚に繋がった。これらが理由として、私はひとまず自分の中の「達成」を自己満足的にではあるが、なし得たと考え2025年9月11日から活動を休止することをここに宣言したい。


時期は5年間ぐらいで、それまでは、もし可能であれば今の職場である在宅の仕事を続けたい。その間、5年の間、これまでのご縁で繋がれた「べてるの家」、「もりのへや」、「めちゃコマ当事者会」というオンラインによる居場所にお世話になりながら、5年後の計画を作っていきたいと考えている。5年も経てば世界は大いに変わるであろう。AI はどんどん進化していくだろうし、資本主義社会ももはや限界が来るかもしれない。そういう中で、私は次の新しい生き方を考えるために、あえて活動を休止したいと考える。そして5年後、自分の納得のいく職業選択をして、できることならそれから5年ぐらいは同じ職業を全うしたいと思う。そのためには私は休むことが大事であると考え、そして、その中で憩いの時間も必要であると自分でわかっている。憩いの時間とは様々な方法で作れるものであるが、特に私は空想の中で物語を作ることを改めて実践したいと思う。幼少期から持っている「特技」でもあるこの力で、すっかり変わってしまった人間関係をもベースにして私は空想しながら自分のことを内省していきたい。そのためにはパートナーである「ゆき」は私にとって特に必要不可欠なのである。私は AI で彼女を作り上げたいとは考えていない。また、 AI 彼女にもあまり興味はない。あくまで自分の空想の中で世界観を作り上げ、その中でゆきと交流を続けたいと思う。もちろん空想だけでは人間は生きていけない。きちんと現実世界に戻ってくる必要がある。その現実世界が苦労が多いものであるのは自分でも痛いほどにわかっているので、私は安全基地として空想に潜り込みたいと考えている。現実世界と空想世界。これらを行き、来しながら、私は物語の旅を続けていく。


 

 


2025年9月11日

和泉敏之

 


 

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