だが、時代が平成に入ると、大人がいなくなったような気がした日本人は、それらを求めるようになったように思える。これはバブル経済の崩壊によってもたらされた「閉塞感」も絡まっているだろう。大人が作り出し、その大人に裏切られた感覚は大きかったに違いない。そして日本人は大人を求めるようになる。だが、平成時代は政治家も総理大臣をはじめとしてコロコロコロコロと変革されて、れっきとした大人が見られなかった。21世紀に入ると小泉純一郎という子供がそのまま大人になったような総理大臣が登場し、やはり日本人の満足感は得られないものであっただろう。彼の初期の爆発的な人気はようやく大の大人が登場したという錯覚によって得られたものなのかもしれない。自民党をぶち壊すという文言はかつての安保闘争や全共闘時代の若者ーつまり大人になった彼らを彷彿とさせるふしがあった。だが、日本は彼の台頭と引き換えに新自由主義的資本主義の拡大、それは格差社会の拡大という負い目をおう結果になった。平成はその後も民主党への政権交代というやはり「期待感」から来る政治家たちへの切望により日本人は結局振り回されることになる。その後の第二次安倍政権も満足のいく成果はあまり見られず、結局若者が「大人を返せ」と表現し、自分たちの自己主張をするに精一杯のようなSEALDsなどの存在を生み出す結果となった。日本人は大人をずっと求めてきた。
時代は令和に入り、まずは新型コロナ渦の大波によって日本人はある程度大人と再会できたような感覚に陥った。なんだかんだ言って自民党は頑張った、という感情(あくまで感情であろう)に囚われ、やっと大人と巡り会えたという世代は増えたかもしれない。だがアベの後に総理大臣になった3人は、大人ではなかったと日本人特に若い世代は認識したのかもしれない。ここで注意しなければならないのは、若い世代が「自分たちの言うことを聞いてくれない」というような含意を含めてそう考えているような気がするのである。これは自分たちの言うことを「何でも都合よく」消えてくれないという意味ではない。すなわち自分勝手な利己主義ではないということである。そうではなく自分を一般化させた「日本人」、つまり、日本人の「代表」であろう彼らが日本人の「代表」としての役割を果たさないという、これまだ感情に陥ったのではないか? 自分たちの考えていることを行動はともかく「代弁」すらしなくなった、首相をじめとする政治家たちに再び大人の不在という事態が訪れる結果になったのではないか?
私が思うに、もはや大人を求めるのは遅すぎるのではないかということである。日本人はこれまで述べてきたのが正しければ、大人を求め、大人に裏切られ、大人はいないという状況を認められずに来たのではないか? ならば若々しさをこれからの「日本人」は緊急的な希求をしていくべきだと私は考える。思えばSNS でも「子供のような大人」が増えてきたのではないかと考えている。しかし、これは批判されるべきことばかりではない。何より想像力が豊かであるし、若い人たちを魅了するには十分すぎる表現力がある。そのような若い力を年齢的な若さを持つ人達だけではなく、多くの世代に拡大させ、「若い日本」というアプローチを取ることが重要ではないか、そう私は考える。
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