たまたま部屋を掃除していたら、この著作に再会することができた。私は2017年にこの本を自分なりに精読したが、今回改めて読むと新しい発見の連続であった。以下、私がアンダーラインを引いたところと、それに対する私の考えを述べたい。
👉️例えば現代のYouTube や tiktok を考えてみよう。オリジナルとなる音源があり、それにつられて似たようなダンスを踊るのが特徴である。その中から新しい方向づけを行うようなユーザーはほとんど登場しないのが現実である。YouTube や tiktok をゼマンティックとして見なしていいのであれば、極めて一過性で。すぐに変容が起きるものではあるが、そこの皆が類似する意味との接続はこれからも考えていかなければならないであろう。
自然のというよりもむしろ歴史の所産である文化は、今ではわれわれの適応しなくてはならない世界であり、また適応するための道具一式となったのである。一度境界線が引かれると、それは、「自然な」心が付加物としての言語を単に獲得するだけの問題ではもはやなくなった。
👉️これは文化だけでなく、言語にも当てはまるであろう。精製 AI を中心とするAI の中にあるアルゴリズムは言語によって支配されており、これは人工的な言語と言えるであろう。ここでおじさんは妄想したのだが、文化が極めて人工的であるというのが通例だとしたら、AI に内蔵される文化とはどのようなものなのだろうか? もしかしたら言語よりも AI と文化の相性はいいのかもしれないがわからない。
人間の行動の原因はその生物的な基質にあると仮定されていた。 私がそれに代わって論じたいのは、文化と文化に含まれている意味の追求が人間の行為の本当の原因であるということである。
👉️文化と意味の不可分性がここで論じられている。文化から意味が散りばめられて、コミュニケーションシステムに縮減をされるために結合もなされるというルーマン的な私の理解であるが、これはオートポイエーシスの観点から言っても生物的(生物に本来備わっているもの)なものだと言えよう。
一つはわれわれ自身の意図のマントロール下にある領域である。つまり、行動主体としての自己が、世界についての知識と、文脈や信念に一致した形で表し得る欲求を操れる領域である。三番めにあたるのは、われわれのコントロールの及ばない「外界から」やって来る事象である。 つまり「自然」の領域である。一つめの領域では、われわれは事象の成り行きに何らかの形で「責任がある」が、三つめの領域ではそうではない。
👉️ここでは2番目と3番目に注目しよう。2番目とは、乱暴に言い換えるならば、これは広い意味でのコミュニケーションではないか? 思えばリンゴを手に取ることができるようには、コミュニケーションという実態のないものを掴むことはできない。コミュニケーションというもしかしたら無意識的にもつながるものと接合されながら、私たちは様々な欲求欲望を取り扱っているのではないか? また3番目であるが、外界というのを自然に限定しているのは少し「?」である。もちろん自然は外界の代表例でもあるが、人間の脳内に埋め込まれた無意識のシステム、あるいは人間の意識に関与する周りに見えないものなども外界と言うべきではないか?
物語のもう一つの重大な特徴は,すでに行きがかり上触れてきたように、物語は例外的なものと通常のものとをつなぐ環を鋳あげることを専門としている点である。
👉️私は物語をおよそ10年間稚拙ながら書いてきたが、そのストーリーの中に凝縮される濃さについては実感してきたつもりである。それは現実に「よくある話」だけでなく(というより、私はファンタジー作品をいっぱい書いてきたので、よくある話はどうしてもメタファーとして昇華してきた)「え? なにこの話」というような作品を書いてきたつもりである。また、友人の読者に私の作品を読んでもらうと「え? 何が言いたかったの?」というような感想もらったことがある。これはもちろん、私の稚拙な言語体が影響しているのであるが、そもそもストーリー性というのが理解されなかったのではないか? ストーリーが強くなると文体が貧弱になるというのは、私の小説の師匠に教えていただいたことであるが、ストーリーは必ずしも現実世界を抽象化するだけではない。時々現実世界に反して、でも現実世界に戻ってくる、そんなものが物語の大部分ではないか?
ストーリーは、通常性から逸脱したものを理解可能な形で説明することによって、つまり前の節で論じた「不可能の論理」を備えることによって、それがもつ意味を達成するのである。
👉️ここで前提となっているのは、通常のモードの談話と物語モードの談話では、我々に影響する意味世界が異なるということではないか? それを私たちに近い意味世界の語りと近づけることによって、我々ストーリー(あるいはナラティブ)楽しんでいくのではないか? これはいわゆる異文化理解にもつながることができ、異なる意味、世界からの接続によって、コミュニケーションシステムは機能が不十分になってしまう。もちろん歯車が来るような単純なマシーンではないため、複雑系も取り入れると1つの部分に影響を与えると、そこから全体的に影響が及んでしまうということである。これによって影響を与えながら異なる意味システムと接合していく。努力を見せるのが異文化理解だと思える。
ストーリーの機能は、正当とされる文化パターンからの逸脱を緩和し、あるいは少なくとも理解可能にするような意図的な状態を見いだすことである。
👉️これまで述べてきたように、ストーリーというのは現実世界から遠く離れた異世界にも我々を行く許可を与えてくれる。だが、先ほども述べたように、最終的には我々の現実世界に帰ってこなければならない。私は物語を最近はそうではないが、空想の中で作っていたために、現実逃避のような形は否定できなかったであろう。少しだけ書くのが慣れてきたために、私はイメージに頼らずに物語を構成することができるようにはなってきた。これは初期との状況比べると脱皮した状況だとは言えるかもしれない。ともかく、優れた物語やストーリーは新しい読み手を生むのだけではなく、それらに新しい書き手に転換をさせ、新しい物語を作り出させる力を持っている。その方向付けからこぼれ落ちると一連の物語というシステムからは離れてしまうであろう。これは私たちが歴史を通じて現代生きていることにも影響をされているのかもしれない。つまり歴史性を感じることと物語性を感じることはかなりお互いに影響し合っているということではないか?
私の獣のような駄文が続いたが、意味というのは文化だけでなく、物語とも強い結びつきがあり、ある本では意味をつないで、いくのが物語だということも示唆されていた。その意味を私たちは文化というシステムから取り出してくると簡単に言えるであろう。じゃあ文化から意味が繋がれて、その意味が新しい物語を作り、そして、最終的に洗練された文化を作ると言っても過言ではないのではないか? 物語は文化が発展するためのかなり大きな要因であるということで筆を置かせてもらう。ごめんちゃい。
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