2025年7月4日金曜日

「競争か、協働か?」を超えて

特に私が大学を卒業した2010年代前半から、学校教育について語る際に「競争か?協働か?」という2項対立が暗黙の了解のようになっていたと思える。これは2010年代が経験するその後の社会の流れでも強化されたのだから、この対立が軸としておかしいというつもりは毛頭ない。

だがここは、古い宗教や哲学の教えに従ってみよう。その真ん中、どころを考えてみるというところである。競争や協働の中道とは何なのか? これらを雑に考えてみる。前者も後者も他者を必要としているであろう。さらに言えば前者も後者 も他者によって自分自身が規定されるという含意が読み取れる。違ってくるのは、前者が他者を否定した上で自身を規定するというところであるのに対して、後者が他者を必要とした上で、自身を規定するというところではないか。前者はもちろんポストコロニアル的な価値観、後者は現象学的な価値観、とりわけレビナスの倫理学が参考になるように思える。とすると前者は語り合いや対話を必要とは必ずしもしないということになり、後者は自分自身を規定するための語り合いや対話が他者と必要となるとは言えないだろうか。

これをもし応用させて良いのであれば、競争と協働の中道とは何であろうか? ポイントとなる概念を抽出すると、他者、自分、そして対話ではないか? これを別の言い方であなた、私、そしてそのインターフェースとなる言語という風に置き換えてみる。競争的価値観はあなたを踏み台にするような言語で私を定義づけるもの、協働的価値観は私を踏み台というよりかは土台にして、あなたを通じて私を建築しているものとは言えないか? レビナス的な発想が「構築主義」と言われるのもこうして理解ができるように思える。

では肝心の中立的な立場であるが、私とあなたは言語によって紡がれ、導かれ、そして何より出会うということを、私はここで愚論として主張しておきたい。これは私の個人的な話になるが、ようやく本日、私の拙い「風と雪」のシリーズの最終幕を出版することができた。およそ10年間に渡って続いてきた物語の拙いシリーズであったが、ここには色々な人を読者に見立てて、それこそ言葉を紡いできたつもりである。幼稚な話ではあったが、もしかしたら私の頭脳が幼稚だったというよりかは、私の言語が幼稚だったのではないか、そう今は反芻している。私はあなたを必要とし、私を成り立たせるために話を書いてきた、そのような10年間であった。これはよく言えば協働的な価値観であろう。

私の例えを続けると、これからは私はあなたを隣で居座してもらいながら、言葉をつないでいきたいと思う次第である。そうする中で私は新しい私と出会い、あなたも新しいあなたと導かれることになるかもしれない。もし利害関係が入ってきたらもうそれはその時点で終了的な関係である。その時点で私は筆を置く。このように、この関係性は今までよりもさらにデリケートなものになることは理の当然である。あくまで私とあなた(そういえば、この言葉を使う時に私は常に「あなたと私」という紋切り型の言葉を使っていたことに気づいた)がどのような方向に向かうにせよ、選ばれ、導かれ、そして、出会ったものはどのような旅を続けてきたか、その到着点として、私は言語を中心に置きたいと思っている。

これだけ聞くと何をまたファンタジーの世界に入り浸っているのかと言われるであろう。もちろん、私もそれは批判されて仕方ないと思っている。しかし、私がやはり言いたいのは、私とあなたと言葉をそれぞれをつなぐようなものではなく、あれ?気づいたら繋がっていた、、。そういうものとして捉えたいというイメージ的な発想である。少し私が好んでいる「当事者研究」に傾斜しすぎている嫌いもあるが、それを凌駕する知性を私は今持ち合わせていない。

これが私が競争と協働の真ん中に位置する価値観として、今回はまとめさせて頂いた。思考がままならないので、この価値観に対するラベリング的な名付けも今回はやめにしておく。それこそ、そのうち私が出会うであろうという言葉に誰かに誘われて、私はそこに出かけていくのではないかとそう感じているのである。これだけ聞くと無目的という近代現代への反抗的なテーゼのように聞こえるかもしれないが、それこそ、教育などはターニングポイントを何度も数年迎えてきたような気がするし、それはこの5、6年では激しかったような気がする。では、また5、6年経つとどうなるか。それは簡単に想像ができるであろう。AI の使用ということも、ここには鍵になってくると思えるが、AI を使用する個別最適化学習は単なる競争なのだろうか? いや、でも協働的な学習ではないであろう。それは誰にもわからないかもしれないが、むしろ誰にもわからなくて良いのではないか? その誰にもわからないというのを否定するのは誰かがわかっているということを前提とするような気がするし、それ自体が競争あるいはその反対的な協働の不毛な対立を生んでしまうのではないか? 学びは学び。トートロジーではないが、いつかわかる学び。それで良いのではないかと私は最近半ば臆病な思考になっているのかもしれないが、それでも良いのではないかとも思っている。


かつて3年 b組金八先生の坂本金八はこう語っていた。完全には記憶していない不完全なことばで申し訳ない。
「教師は生徒に学ぶ以外に道はない。学校を出て10年経ってふと道を歩いていたら、あの時先生が言ったことがわかった、そうやって10年かけて授業が完結する。教師は生徒に学ぶ以外に道はない」


出会う必要性ができたら、言語が出会わせてくれる。そう、私は考え始めた今日この頃である。


※第3シリーズで武田鉄矢扮する坂本金八が石黒賢扮する新人教師の真野に指導するシーン。

※今回の愚論で私は意図的に言語、言葉、ことばという単語を使い分けたつもりである。もしきちんと使い分けてなかったらごめんちゃい。

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