2025年6月3日火曜日
SNS メディア規制について
SNSにメディア規制が4月から入ったということである。私はX とFacebook 、Instagram、そして YouTubeを愛用しているが、はっきり言って、自分の身の回りでは規制がされているのかどうか判断ができない。だが、例えば政府批判のようなコンテンツを売りにしている人々は、規制がかけられたと嘆いていることをよく耳にする。X ではイーロンマスクにメディア規制の撤回の請願をする人も出てきたという。だが1つ考えてほしい。例えば X であるが、Xのメディア規制は受動的にせよ能動的にせよXの会社自体が少なからず関与しているということである。つまり、イーロンマスクに何を請願してもそれはあまり効果がなさそうである。彼もメディアを運営する側として、情報を取捨選択するアルゴリズムを開発し、起動させている側なので、それは彼に言っても仕方ないことであろう。それよりも歴史が物語る言論統制に対する対抗措置として、言語をうまく操ることしかないのではないか? 非暴力不服従というのはよく聞かれたメディアリーダーのやり方であったが、確かに、私も近年の SNS の書き込みや文言がある意味で「暴力」になってないか、あるいは文字通りの意味での暴力に加担していないか、気がかりで、自分では自分の言葉を選んで書き込んできたつもりである。やはり暴言のような語り口調で批判を超えた否定をするよりも、様々な形で言語を駆使して、批判を批判としてきちんと起動させるべきではないか? 日本の歴史でも風刺画のような伝統は数多く歴史上見られていたであろう。そのような工夫を軽蔑するのではなく、口汚い言葉やあるいは画像などのコンテンツを軽蔑すべきではないか? そうしなければ、構造的な暴力を使ってくる「権力サイド」とやっていることはほとんど変わらないことに陥らないか? 私は偉そうなことを言える立場ではないが、言葉を使うことを本業としている身として、1人1人が自分の言葉で、責任のある言葉で、また一度放り投げてしまっては、相手に解釈を許すという言葉の特性を今一度しっかりと確認した上で、SNS という言論空間を利用すべきだと、反省している。思えばニコニコ動画のような言葉が飛び出してきては消えていくメディアの登場は、現在の SNSの自由な言論空間という特性ゆえの規制という結果を予測するようなものであったように思える。 また少し気味の悪い話ではあったが、2008年の秋葉原無差別殺傷事件で犯人が犯行直前に独り言のような垂れ流しを電子掲示板で行っていたのは、現在の SNS への教訓として捉えなければ、我々は歴史から何も学んでないことになる。今一度 SNS というありがたい空間を、各々の意図するところで、便利に活用できるように、我々は工夫を重ねるために試行錯誤し、そのために思考を張り巡らせるべきではないか?
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