SNS で排外主義の勢いが止まらない。この流れは夏の参院選を通じてさらに広がっているような気がする。しかし、 SNS の投稿を見ていると、今回の排外主義には何か重要な主張が欠けているような気がする。なんだろうと考えてみたが、イデオロギー色が薄いのである。確かに共産主義を中心とした一部のイデオロギに対する批判は見て取れるが、自分たちの主義主張は何に基づいているかと聞かれると、話を変えているような気がする。
では、彼らが大事にしているものとは何なのだろうか? それは半ば青臭い言葉で言えば「居場所としての日本」(という国家システム)なのだろうかと考えた。自分たちの拠り所にしている主張、その先にある哲学思想、それが国家というシステムと結びついているが、拠り所にしている視聴や思想にはメタ的な認知が及ばず、多くの場合、インフルエンサーのような代替とする人物に寄っているような印象を受ける。これも SNS 時代の言うならば「醍醐味」かもしれないが、共通認識や共通理念が実は薄いのではないかというのも気にかかるところである。
私は大学時代、神話に権力を持たせてはいけないということを大いに学んだが、今や神話というよりもある人物、しかも特定の少人数の人間たちに代弁させて、自分たちはそれに乗っかってSNS 上で発言をしたり、デモ活動をしたりしているのではないかと懸念している。これらの表現の自由というラベルに、私は完全に否定をかけるわけではないが、やはりどこか無責任な気がするのである。
かと言って彼らが批判するようなサイド(はっきり言って、私もこちら側の人間なのだが)にしっかりとした理念があるかどうかは疑わしい。かつてはマルクス主義という大きな物語があったというのは今さら話すべきではないし、大きな物語云々などについて自己主張する気もない。だがこちらのサイドにかけているのは、やはり物語ではないかという気もする。さらに物語を代弁する人物が欠けているのではないかというのが私の意見である。こちら側は確かに反抗的な態度を取ることも多く、一部の人間に権力を委ねてはより危険な気もするのは確かだが、では、やはりシステムとしての物語を機能させる必要は大いにあるであろう。批判側が物語を持ってそれを語る人物を建てている。以上、同じようなリングに乗ってレスリングをする必要はないのだろうか?
それが単なる SNS でのほとんど無意味な「ぎろん」になってしまっているのは悲しい限りだが、では、そのようなぎろんを今度はテレビではなく(これらオールドメディアと呼ばれている)、YouTube などの番組でなされているかと言うとそれも疑わしい。視聴率や視聴回数は確かに大事である。私も YouTube を運営しているので、その気持ちはよくわかる。しかしながら本当に日本あるいは世界のためと考えるならば、イデオロギーをぶつけ合うリングは必要ではないだろうか? この SNS 時代が発展して AI 時代が本格的にやってくるが、その時 AI に代弁させて、私たちはそれを崇めるだけの存在に下ってしまうのだろうか? わからない。
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