2025年6月7日土曜日

「民族」の定義をしっかりと

ここ数日X を中心とするSNS で他の国の移民を排斥するような言動がかなり多く見られるようになってきた。結論から言うと、私はこの動きを支持しない。反知性的であるし、物言いも決して熟練されたものとは思えないからである。

そもそも移民排斥を訴える皆さんの主張では「民族」の定義が浅はかだと考える。「民族」と言っても1枚岩ではなく、政治性、経済性、文化性などが複雑に絡まった概念なのは少し知識を入れていれば当然であろう。排斥を訴える方々はいわゆる C国に日本を乗っ取られるという政治性を強調しているようだが(そもそも乗っ取られるという言い方が、歴史認識を浅く見ているような気がするが)それを文化性にまで強引に拡張した議論が続いているような気配がする。確かに外国人という外の国の人は日本の背景文化とは異なる背景文化を持っており、日本人からしたら半ば非常識的な言動を取るのも納得はできる。しかし、先ほどの政治性と文化性を強引に接着させたような議論はあまり賢くないように思える。「ウィグルがー」などの文言が目立つが、それは政治の問題であり、文化的な問題と履き違えてるのではないかと思ってしまう。政府と国民の違いもはっきりされてないというレベルではないか?

そして、残りの経済性に関してほとんど議論されていないのが気になる。日本はまだまだ移民が来るような経験は豊富ではなく、慣れない状況にあるの頷ける。しかし、簡単に言えば、日本人の労働人口に対して、政府は何か良い政策を取ってきただろうか? 誤解のないように、ここで政府という言葉が出たが、別に政治と経済を混合しているわけではないのは自明であろう。政治システムによって経済システムが機能してこなかった言い訳を、まるでジャイアンがのびたをいじめるように移民に押し付けるのはいかがなものかと思う。しかし、果たして日本は将来的に移民が来てくれるような文化的水準を保てるのであろうか? そこまで魅力的な国であり続けるという自信は、個人的にはあまりないし、むしろ出稼ぎのように海外に短期的に出かける日本人が出てきてもおかしくないと思える。そのようなデリケートな状況の中で、叫び声をあげて移民を排斥するような運動を実際に X やリアルで行うのは長期的な戦略が立てられてないと海外に思われても仕方がないのではないか?

例えば幕末の歴史でも、尊王攘夷という動きはあった。これは天皇を君子に見立て、外国人を排斥するという現在よりもさらに過激な運動であった。しかし、要人たちは外国と張り合っても勝てる。見込みはないということをすぐに察知し、外国人排斥のムードは薄まっていったように思える。それよりも国力をつける方が優先的であると決断したのであろう。これをそのままアナロジーにするわけにはいかないが、日本の国力つまり経済力が弱いのに、外国人に半ば弱い者いじめのような言動を見せるのは、外国人から簡単に言えば、日本人の品性を疑われるし、そもそもこの論者たちが恐れている日本への侵略のような行為は逆にエスカレートするのではないかと私は危惧している。賢い人には人間は喧嘩を売らないというのはよく見られる構図であろう。

現在、日本人は日本語の壁に守られているが、将来的にはどうなるのであろうか? 多文化共生を押し付けるなというスローガンも見られたが、では言いたい。「多文化共生を反対するような言動を押し付けるな」このようにこの動きによる議論は循環論に陥ってしまい、言っては悪いが本当に無益だと思ってしまう。

だから私は最近SNS でこのような投稿が流れてこないために、別の投稿を増やすような。アルゴリズムを作るために工夫をしている。もっと冷静にならないと、本当に日本は危険な状況に陥って閉まるのではないかと、私は自分を含めた現代人がもっと冷静に批判的に、そして暖かく考えるべきではないかと思っている。そうしないと先人たちから私たちは何も学んでないことになり、彼らに嘆かれるような気がしてならないからである。

0 件のコメント:

コメントを投稿

サルにはなれそうもない

 かつて『さよなら人類』という名曲がありました。ふざけたテイストの中で、特に1990年代初期に流行していたいわゆる「イカ天」でヒットしたバンドの曲のため、独自のカラーを出していますが、そのメッセージは紛れもない「反戦」でした。 2025年の11月21日にボーカルの方がソロでこの曲...