権力の暴力に屈することなかれ

2025年に入って、日本人のデモ活動の活発化やSNS での政治的な言論の増大は目に見えて明らかであろう。私はこれを全て賛同する訳にはいかないが、国民の良くも悪くも目が覚めたというのは、新しい兆候としてこれからも観察していきたいと思っている。

SNS で政治的意見を表明しない知識人と呼ばれる人間たちには、例え、状況が変わって意見を連呼するようになっても信頼してはならないと思う。なぜなら自分たちの座椅子が一番重要で、そこから引きずり落とされるのを危惧しているためだけに、状況を見ながら風見鶏になっているだけであるからだ。

さて、 SNS やデモ活動に完全に加担するわけにはいかないと述べたが、私はいわゆる共闘という形式で権力者に言語の力で働きかけていくことは賛同している。思えば私も20代の頃、大学生で暴露系のブログを運営していた時に、随分と大学教授などから妨害行為を受けたものである。それも若気の至り。あるいは若い人たちへのアドバイスとして、しっかりと観察をするという自分のスタンスを定めている要因になっている。私はデモには参加しない。積極的に政治的意見、特に既得権益の解体と呼ばれるような語りにはホイホイと協力するわけには行かないのである。その人その人には宗教的な言い方になって申し訳ないが、役目があり、それを否定した上で勝手な行動をとるのははっきり言って暴走しているもの以外の何者でもなく、いずれ痛い目を見るのは私も経験をしていることだからである。

よく聞かれるのは1人の力ではどうしようもない。では協力して2人3人4人と広げていくのはどうであろうか? 保守系のインフルエンサーがそういうのをお断りしているという情報を耳にしたが、なぜなのか理解できない。特に目立つ1人の存在を窮地に立たせたいのか? あるいは自分1人が目立ちたいのか? はっきり言って、それは小学生並みの知性である。そんなことよりも連帯を取りながら、様々な役割を自分で考えて、政治システムに相互作用をすべきでは考えている。政治システムが破壊されるなどとは本末転倒であるから、よくよく「〜解体」と叫んでいる市民の方には気をつけていただきたいと願っている。私のスタンスとしては、それらの動きを観察していき、度が過ぎた時と、私が個人的に主観的に感じた時はこのようなブログにカスのような獣みたいな文章を掲載するというスタンスや役割を演じていると思っていただければ幸いである。1人1人の役柄を全うして、日本社会をより良くするというのには賛同している。必ずや行き過ぎたデモ活動や特に行き過ぎた SNS の暴言は暴走していき、それに信者が現れて、さらに暴動は止まらなくなることにより、「構造的暴力」に変わらない様子になるのは目に見えているからである。もちろん構造的暴力というのは戦争が起きる1つの原因である。今日は薬を飲み間違えて疲れているのでこれくらいで。

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