SNS によるコミュニケーションシステム

近年のSNS を中心としたコミュニケーション触媒におけるコミュニケーションを観察してみると、そこにはある一定の方向へ意味が固定化されているような観察が見受けられる。これは例えば、「政治政府への批判」や「デモ活動への無批判的な迎合」と言った観察によって確認される。ここには〈旧体制/新体制〉の差異が見られ、ちょうどトランプ大統領という記号が象徴しているように、このバイナリーはそれぞれ閉じられたシステムになってしまっており、意味を循環させるコードにまではなっていない。つまり、〈自我〉が〈他我〉を規定し直し、否定的な位置づけにより自我システムを規定するという、まるで古臭い帝国主義システムが横たわっている。そこにはSNS という特殊なコミュニケーション触媒における意味システムが機能せず、エントロピーが増大したままで、複雑性が十分に縮減されてないのが理由にあげられるのではないか。従来の〈左派/右派〉の差異ではコミュニケーションをうまく観察できず、そこにはこう言っていいのであれば「おべっか」という乱雑な意味規定が施され、それはゼマンティックとして十分に機能しているように思われる。帝国主義的なゼマンティークはSNS の中でコミュニケーションを熾烈な戦いに移行させ、そのまま観察をされるだけのシステムとして鎮在している。コミュニケーションによって観察されるコミュニケーションは、やや循環論的な言い方になるが、どこまで行ってもコミュニケーションによってでしか洗練されることはない。今ここに置けるコンテキストを超えて、歴史的な社会構造の変容に少しでいいので、コミュニケーションシステムが耳を傾ける必要があるのではないか?

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