蛍の光とテクノロジー

画像:Gemimi


蛍の光を電光の代替として活用する愚案を覚えた。だが、知るように蛍の放つ光は自然エネルギーともいえる自然からの恵みであり、そこには意味素材も非意識的なレベルにて処理されており、比較的簡易に単純に彼らの照らす光のお零れをもらうのは可能であろう。圧力をはじめとした力もそれほど顕在的には必要なく、強いて言えば、蛍の寿命と人間の寿命がミクロな社会システムにおける「安全」のコードを発揮させるために貢献する。古来の、言い方を変えれば「昔の日本人」はこのような自然と人間の弁証法を考慮した上での、生活のヒントを大いに自分たちに恩恵として利用活用していたに違いない。それは彼らが自然というものの深さや膨大さのみならず、驚威のことも熟慮していたからに違いない。私をはじめとした現代の人間は、もちろん、スクリーンやタブレットの中のテクノロジーに関しては明るい存在である。だが、それらを外れると私たちは無力ではあることに気づくであろう。停電になるといかに、私たちが電力に依存して生活していたかに気づくであろう。このような人間の関係性にパニックを引きおこす事態に対しても、昔の人々は冷静に工夫を凝らして対処していたこと、そういうことを、私は2011年に亡くなった祖母から聞いたことがある。単純に昔の人は頭が良かったで済ませる問題でもあるが、私たちが世代が変わって彼らから学べることは何なのだろうか? そして次の世代に残せるものは何なのだろうか? それは限られた環境と資源の中で、いかにそれらを労働という行動によって変容させるのみならず、元の素材のまま、それらと佇むことではないだろうか? そうしなければ、私たちはどんどん疎外の労働観を宿され、なぜに働くのか? それを超えてなぜ生きることか? これを思考的に進めていくのではなく、がんじがらめになった頭が考え込んでしまうに過ぎなくなってしまうのではないか? こういうことが、私は歴史から学ぶべきだと考える大きな理由である。

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